ちょっと寄り道...『須佐の七不思議』

境内に湧出している塩の井は大社の稲佐の浜に続いているので、微かに塩味を感じる。湧水に間湯があるのは潮の干満のためである。須佐之男命自ら潮を汲みこの地を清められたという。(社記)
影無し桜(かげなしざくら)
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星滑(ほしなめら)
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境内に湧出している塩の井は大社の稲佐の浜に続いているので、微かに塩味を感じる。湧水に間湯があるのは潮の干満のためである。須佐之男命自ら潮を汲みこの地を清められたという。(社記)
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ご 由 緒
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須佐神社(須佐大宮) 須佐神社は、神話の国出雲地方を潤す神戸川の上流に祀られて いる延喜式内の古社で須佐之男命と稲田比売命の御子の子孫と 伝えられる須佐家が代々仕えている神社である。 『出雲国風土記』には「須佐之男命が『この土地は狭いところであるが 住み良い所である。だから自分の名は木や石には付けず、この土地 に付けよう』と仰せられて自分の御魂を鎮め、大須佐田、小須佐田 をお定めになった。それゆえに須佐という。」と記されている。 現在の本殿(大社造)は天文二十三年(一五五四)尼子晴久が改築、 文久元年(一八六一)藩主松平定安が修造した正統的な大社造で、 栩葺の出雲を代表する堂々とした構えをもつ。 社宝には、尼子晴久奉納・兵庫鎖太刀(国指定重要文化財)、 室町時代の作である舞楽面「納曽利」・南北朝から室町初期の 黒韋威鎧残欠(県指定文化財)、などが残されている。 須佐之男命が自ら御魂を鎮め、名を土地に付けられた御魂鎮の 聖地、御名代としての霊跡の地の社として朝廷を始め国守、藩主等の 崇敬を集めた由緒ある神社である。 『須佐神社御由緒』より |
御 祭 神 |
須佐之男命
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配 祀
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稲田姫命 足摩槌命 手摩槌命
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本殿(西側から)
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本殿(東側から)
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鳥居
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拝殿
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鳥居近くの社号標
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県道39号線の社号標
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亀 石
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『大杉さん』...何かパワーを感じられる場所です。
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『大杉さん』
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御朱印
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出雲国神仏霊場の御朱印 |
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入り口にある干支
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神楽殿 |
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手水
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御由緒掲示板 |
黄金の龍の鏡
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出雲国風土記登場地標柱 |
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境内の奥の方です。
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交通安全祈願の際の『お下がり』 |
稲荷社 稲倉魂命 | |
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三穗社 三穂津比克命、事代主命
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東末社・西末社 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、 熊野樟日命、市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命
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天照社 天照大御神 | |
厳島神社 市杵嶋姫命、田心姫命、 湍津姫命 |
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須賀神社 素我里命 |
地図
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問い合せ
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住 所
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島根県出雲市佐田町須佐730
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電 話
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0835-84-0605(電話・FAX共通)
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ホームページ
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https://www.susa-jinja.jp/
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メールアドレス
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susa7001@icv.ne.jp
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駐 車 場
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神社境内の隣に30台程停められます。そこが 一杯ならばゆかり館の駐車場に止められます。
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道度
枉北道は、北に去くこと四里二百六十六歩にして、郡の北の堺なる朝酌渡に至る。渡り八十歩。渡船一つあり。又、北へ一十一里一百四十歩にして、嶋根郡家に至る。郡家より北に去くこと一十七里一百八十歩にして、隱岐渡、千酌驛家の濱に至る。渡船あり。
又、郡家より西へ一十五里八十歩にして、郡の西の堺なる佐太橋に至る。長さ三丈、廣さ一丈あり。佐太川なり。又、西へ八里二百歩にして、秋鹿郡家に至る。又、郡家より西に一十五里一百歩にして、郡の西の堺に至る。又、西へ八里二百六十四歩にして、楯縫郡家に至る。
又、郡家より西へ七里一百六十歩にして、郡の西の堺に至る。又、西へ一十里二百二十歩にして、出雲郡家の東の邊、卽ち正西道に入るなり。惣べて枉北道の程、一百三里一百一十歩の中、隱岐道は一十七里一百八十歩なり。
正西道は、十字街より西へ一十二里にして野代橋に至る。長さ六丈、廣さ一丈五尺あり。又、西へ七里にして、玉作街に至り、卽ち分かれて二つの道となる。一つは正西道、一つは正南道なり。
正南道は、一十四里二百一十歩にして、郡の南西の堺に至る。又、南へ二十三里八十五歩にして、大原郡家に至り、卽ち分かれて二つの道となる。一つは南西道、一つは東南道なり。
南西道は、五十七歩にして斐伊河に至る。渡二十五歩、渡船一つあり。又、南西へ二十九里一百八十歩にして、飯石郡家に至る。又、郡家より南へ八十里にして、國の南西の堺に至る。備後國の三次郡に通へり。惣べて國を去る程、一百六十六里二百五十七歩なり。
東南道は、郡家より去くこと二十三里一百八十二歩にして、郡の東南の堺なる〔仁多郡比比理村に至る。又、東南へ一十六里二百三十六歩にして、仁多郡家に至り、分かれて二つの道となる。一つは正東道、一つは正南道なり。正東道は三十五里一百五十歩にして、伯耆國の堺なる阿志毗緣山に至り、正南道は三十八里一百二十一歩にして〕、備後國の堺なる遊託山に至る。
正西道は、玉作街より西へ九里にして來待橋に至る。長さ八丈、廣さ一丈三尺あり。又、西へ〔一十四里三十歩にして、郡の西の堺なる佐雜埼に至る。又、西へ一十三里六十〕四歩にして、出雲郡家に至る。又、郡家より西へ二里六十歩にして、郡の西の堺なる出雲河に至る。渡五十歩、渡船一つあり。又、西へ七里二十五歩にして神門郡家に至る。卽ち河あり。渡、二十五歩、渡船一つあり。郡家より西へ三十三里にして、國の西の堺に至る。石見國の安農郡に通へり。惣べて國を去る程、一百六里四十四歩なり。
驛路
東の堺より西に去くこと二十里一百八十歩にして、野城驛に至る。又、西へ二十一里にして、黑田驛の至り、卽ち分かれて二つの道となる。一つは正西道、一つは隱岐國に渡る道なり。隱岐道は北に去くこと三十四里一百四十歩にして、隱岐渡、千酌驛に至る。又、正西道は三十八里にして、宍道驛に至る。又、西へ二十六里二百二十九歩にして、狹結驛に至る。又、西へ一十九里にして、多伎驛に至る。又、西へ一十四里にして、國の西の堺に至る。
軍團
意宇軍團は、卽ち郡家に屬けり。
熊谷軍團は、飯石郡家の東北二十九里一百八十歩なり。
神門軍團は、郡家の正東七里なり。
烽
馬見烽は、出雲郡家の西北三十二里二百四十歩なり。
土椋烽は、神門郡家の東南一十四里なり。
多夫志烽、出雲郡家の正北一十三里四十歩なり。
布自枳美烽は、嶋根郡家の正南七里二百一十歩なり。
暑垣烽は、意宇郡家の正東二十里八十歩なり。
戌
宅伎戌は、神門郡家の西南三十一里なり。
瀬埼戌は、嶋根郡家の東北一十九里一百八十歩なり。
天平五年二月三十日勘へ造る。秋鹿郡人 神宅臣金太理
国造帶意宇郡大領外正六位上 勳十二等 出雲臣廣嶋
ちょっと寄り道...『須佐の七不思議』 須佐神社周辺には『須佐の七不思議』といわれる場所があります。 ※本文は上記案内板より 塩ノ井(しおのい) 境内に湧出している塩の井は大社の稲佐の浜に続いているので、微かに塩味を感じる。湧水に間湯があるのは潮の干満...