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出雲国風土記 大原郡 『世裡陀社(西利太神社)』

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出雲国風土記に記された大原郡の古社、西利太神社を歩く 『西利太神社(せりたじんじゃ)』は、島根県雲南市大東町に鎮座する古社で、出雲国風土記にも記される由緒ある神社です。大原郡に所在し、地域の人々から長く信仰を集めてきました。境内は静かで落ち着いた雰囲気に包まれ、四季折々の自然とともに参拝できます。 祭神や詳細な由緒は古文献にのみ記される場合もありますが、訪れることで歴史の息吹と神話の香りを感じられる場所です。散策や写真撮影にも適しており、静かな時間を過ごしたい参拝者におすすめの神社です。 拝 殿 本 殿 御祭神 主祭神    金山比古命 配祀神    伊邪那美命 速玉之男命 事解之男命 御由緒 西利太神社(せりたじんじゃ) 〇ご祭神   主祭神 金山比古命(かなやまひこのみこと)   配祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと)       速玉之男命(はやたまのおのみこと)       事解之男命(ことさかのおのみこと) 〇ご利益  鉄鋼業・鉱山繁栄、商売繁盛、家運繁栄 〇鎮座地  島根県雲南市大東町清田六十七番地(旧大東町大字清田字辛)       旧熊野神社 飛地境内地(旧大東町大字清田字岩根)  由緒  主祭神の金山比古命神は伊邪那美命神が火の神(軻遇突智神)をお産みになった時その嘔吐物からお生まれになった神で金(綱)の神と称され、陰陽五行説によれば東西南北中央の西の方角を司る神として金の御祖神として崇められる。今で言えば、太古の昔にこの大地からマグマとなって吹き出す鉱物の神とも言えるのだろう。配祭神の三柱の神は出雲地方に多く見られる神々で、当地の東方約六百米上に在った旧熊野神社のご祭神であったが、大正十五年に合祀された。  神社の創立年代は不詳であるが、奈良時代天平年間(七三五年頃)に編纂された出雲国風土記の大原郡阿用郷に『西裡陀社』として神祇官に在す十三社の内の一社に所載されている。延喜式内社であり神名帳 (九二七年)には『西利太神社』と称し、後の時代江戸期天和年間に編纂の「風土記抄」に阿用郷清田村に鎮座とあり、同じく江戸期宝永年間の地方史書として編纂された「雲陽誌」には「辛明神」と称されている。凡そ千五百年前からこ...

出雲国風土記 大原郡 『船林社(船林神社)』

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出雲国風土記 大原郡 『船林社(船林神社)』 雲南市大東町に鎮座する船林神社は、出雲国風土記に船林社と記載され、御祭神として阿波枳閉委奈佐比古命をお祀りする古社で、 御祭神の阿波枳閉委奈佐比古命は、農耕の神として信仰され、船林神社も古くからこの地の守護神として尊崇され、農耕の神社として信仰されています。 拝 殿 本 殿 本殿の右側 本殿を左後方から 本殿の裏側 御祭神 主祭神    阿波枳閉委奈佐比古命 御由緒 船林神社 御由緒 御祭神 阿波枳閉委奈佐比古命 ( あわぎへわなさひこのみこと ) 当社は出雲風土記所載の 「 船林社 」 にして同風土記によれば 「船岡山」 郡家の東北一十六里(今里在二里二十四町)阿波枳閉委奈佐比古命の曳き末、すえませし船化してこの山となる故に船岡と言う」 とあり、命は往古この山を中心に粟を主とした農耕の道をお開きになったので後命の遺徳偲び奉り祖神として奉斎したのであるが、中世の頃一次衰微して社殿も消滅し山野となったことがあった。  その頃、麓に高島十助と言う者があり 此の地を畠となさんと開墾中に、方三尺許りの切り石で社の土台らしきものを発見し驚きこの由を馬川与左衛門に告げ、共に謹み更にくわしくこれを視るに、全く祠蹟に間違いなきを認めたので、文化八年 ( 皇紀二四七二年 西暦一八一六年 ) 夏社殿を再建立命の神魂を安鎮奉斎し後北村の里の氏神として崇敬し今日に及んでいる 船岡山は船山或いは大船山とも称し 標高一四〇米 遠望すればその名の如く船を伏せたる形をなし 頂上に立てば海潮の地の中心をなす南村北村の里を一望に納め風光明媚である。  境内社 山神神社 社日社 荒神社 祭日  例大祭 十一月八日     祈年祭 三月十九日     新嘗祭 十二月五日      後共祭 麦祭 山神神社祭 七月十四日     昭和五十三年十一月吉日 宮司 新田省一 識 山神神社   荒 神 社日碑 たいていは六角柱や八角柱だけどここは自然の石の社日碑ですね...。 記念碑 何の記念碑か...『村社船林神社 墓本金寄附記念碑』と彫られているみたいだけど...! ...

出雲国風土記 大原郡 『宇乃遲社(宇能遅神社)』  

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出雲国風土記 大原郡 『宇乃遲社(宇能遅神社)』 雲南市加茂町に鎮座する宇能遲神社は、出雲国風土記に宇乃遅社と記載された古社で、宇乃遅彦命、須我弥神、素盞鳴尊、稲田姫命、大国主命を御祭神としてお祀りする神社です。  出雲国風土記には宇乃遅社が2社記載されており、うち1社は雲南市加茂町立原に鎮座する須美禰神社とする説と宇能遲神社に合祀された説があります。 拝 殿 本 殿 御祭神 主祭神    宇乃遅彦命 須我弥神 素盞鳴尊 稲田姫命 大国主命 御由緒 御由緒 大原郡加茂町大字宇治字亀山鎮座 宇能遲神社 一、御祭神 宇乃遲彦命 須我禰神 素盞鳴尊 稲田姫命 大國主神 一、由緒 雲陽誌曰出雲風土記に宇能遲社同社あり 延喜式に宇能遲神社同社に坐す須美禰神社と記せり 是則大己貴命 須美禰神 須佐能袁命を合祭して 今俗に三社大明神と言う 延徳年中より延寶まで造立 再建の棟札あるも文意野俗にして鎮座勧請等不分明 即ち古老語て曰 往古は三社にて流鏑馬百手の的鷹野などの神事ありけるが 中古より二社減して本社計也 祭事も多くは止みしか、掛松とて老樹あり。 古老傳に曰 風土記和名鈔に屋裏郷は天下造らし 大神矢を令立給ふ故に矢内と言ふ 神亀三年字を屋裏と改む 往昔は屋裏郷十二ヶ村の総産土神にして弓掛松に弓を掛け 矢聲の神事と唱ひ盛典ありけるが 中古改易して祭儀も今は其の禮而己残れり 明治四年辛未十二月村社に列格 同三十九年四月勅令第九十六號に依り 大正三年十月九日 本縣告示第三百十六號を以て 神饌幣帛料を供進なることを得べき神社と指定せらる。 例 祭 十月十日 祈年祭 二月二十四日 新嘗祭 十二月三日 社掌 宮川 恭逸 昭和十二年四月十七日謹記   氏子総代 多々納一郎      栂 善太郎      錦織清三郎      西 喜久雄      多々納忠一 稲荷社   狛狐 境内社 天満宮と大山神社...どっちなのかわかりません...! 境内社の下に置かれている仏像(⁉) 社日碑 石 像 不明...! 狛 犬 随神門 御神木 手 水 狛犬前にある手水...