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2021年2月21日日曜日

国の特別記述

国の特別記述



十字街(ちまた)
出雲国風土記登場地標柱 十字街

道度(みちのり)

國の東の堺より、西に()くこと二十里一百八十歩にして野城(ぬき)に至る。長さ三十丈七尺二丈六尺あり飯梨河なり。又西二十一里にして國廳(くにのまつりごとのや)意宇(おうの)郡家(ぐうけ)なる十字街(ちまた)に至り、れてつのとなる。一つは正西道(まにしのみち)つは枉北道(きたにまがれるみち)なり。


枉北道
(きたにまがれるみち)
は、()くこと四里二百六十六にして、なる
朝酌渡(あさくみのわたり)に至る。渡八十歩渡船(わたしぶね)つあり。又一十里一百四十にして、嶋根(しまねの)郡家に至る郡家より北に()くこと一十七里一百八十歩にして、隱岐渡(おきのわたり)千酌驛家(ちくみのうまや)に至る。渡船あり

又、郡家より西へ一十五里八十歩にして、郡の西の堺なる()()に至る。長三丈一丈あり。佐太川なり。又西へ八里二百歩にして、秋鹿(あきか)郡家に至る。郡家より西一十五里百歩にして、西に至る。又西八里二百六十四歩にして、楯縫(たてぬひ)郡家に至る

又、郡家より西へ七里一百六十歩にして、郡の西の堺に至る。又、西へ一十里二百二十歩にして、出雲郡家(ぐうけ)(ほとり)正西(まにし)(のみち)に入るなり。()べて枉北道(きたにまがれるみち)(みちのり)、一百三里一百一十歩隱岐道(おきへのみち)一十七里一百八十歩なり

正西(まにし)(のみち)は、十字街(ちまた)より西一十二里にして野代(ぬしろ)に至る。長六丈一丈五尺あり。又西七里にして、玉作街(たまづくりのちまた)に至り、かれてつのとなる。一つは正西道(まにしのみち)つは正南道(まみなみのみち)なり

正南道(まみなみのみち)は、一十四里二百一十歩にして、南西に至る。又へ二十三里八十五歩にして、大原(おほはら)郡家に至り、かれてつのとなる。一つは南西道(みなみにしのみち)つは東南道(ひがしみなみのみち)なり。

南西道(みなみにしのみち)は、五十七歩にして斐伊()(のかは)に至る(わたり)二十五歩渡船一つあり。又南西へ二十九里一百八十歩にして、飯石(いひし)郡家に至る。又郡家より八十里にして、南西に至る。備後國三次(みよし)に通へり()べて國を(みちのり)一百六十六里二百五十七歩なり

東南道(ひがしみなみのみち)は、郡家より()くこと二十三里一百八十二歩にして、東南なる〔仁多比比理(ひひり)に至る。東南一十六里二百十六歩にして、仁多郡家(ぐうけ)に至り、かれてつのとなる。一つは正東道(まひがしのみち)、一つは正南道(まみなみのみち)なり。正東道(まひがしのみち)は三十五里一百五十にして、伯耆(ははき)の堺なる阿志毗緣(あしびえ)山に至り、正南道(まみなみのみち)は三十八里一百二十一歩にして〕、備後(びんご)なる()()に至る

正西道(まにしのみち)は、玉作街(たまづくりのちまた)より西九里にして來待橋に至る。長八丈一丈三尺あり。又西へ〔一十四里三十歩にして、郡の西の堺なる佐雜埼(ささふのさき)に至る。又、西へ一十三里六十〕四歩にして、出雲(いずも)郡家に至る。又郡家より西二里六十歩にして、西なる出雲に至る(わたり)五十歩渡船一つあり。又西七里二十五歩にして神門(かむど)郡家に至る。卽あり(わたり)、二十五歩渡船一つあり。郡家より西三十三里にして、西に至る。石見國安農(あぬ)に通へり()べてを去る(みちのり)一百六里四十四歩なり


驛路(うまやぢ)

東の堺より西に()くこと二十里一百八十歩にして、野城驛(ぬきのうまや)に至る又、西へ二十一里にして、黑田驛(くろだのうまや)の至り、かれてつのとなる。一つは正西つは隱岐國に渡るなり隱岐道(おきへのみち)()くこと三十四里一百十歩にして、隱岐(わたり)千酌驛(ちくみのうまや)に至る。又正西道(まにしのみち)は三十八里にして、宍道驛(ししぢのうまや)に至る。又西へ二十六里二百二十九歩にして、狹結驛(さよふのうまや)に至る。又西一十九里にして、多伎驛(たきのうまや)に至る。又西一十四里にして、西に至る


軍團(いくさのつかさ)

意宇(おう)軍團は、郡家(ぐうけ)()けり

熊谷(くまたに)軍團は、飯石郡家東北二十九里一百八十歩なり

神門(かむど)軍團は、郡家正東(まひがし)七里なり


(とぶひ)

馬見烽(まみのとぶひ)は、出雲郡家西北三十二里二百四十なり

土椋烽(とくらのとぶひ)は、神門郡家東南一十四里なり

多夫志烽(たぶしのとぶひ)出雲郡家正北(まきた)一十三里四十なり

布自枳美烽(ふじきみのとぶひ)は、嶋根郡家(ぐうけ)正南(まみなみ)七里二百一十歩なり

暑垣烽(あつがきのとぶひ)は、意宇郡家正東(まひがし)二十里八十歩なり


(まもり)

宅伎戌(たきのまもり)は、神門郡家の西南三十一里なり

瀬埼戌(せざきのまもり)嶋根郡家東北一十九里一百八十歩なり


天平五年二月三十日(かむが)る。秋鹿郡人(あきかのこほりのひと) 神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)

国造帶意宇郡大領(くにのみやつこにしておうのこほりのかみをかねたる)外正六位上 勳十二等 出雲臣廣嶋

2021年2月15日月曜日

楯縫郡 郷里驛家

 楯縫郡 郷里驛家


楯縫郡(たてぬひのこほり)

(さと)四、 (こざと)一十二 餘戸(あまりべ)一、神戸(かむべ)

 佐香郷(さかのさと) も前に依りて用ゐる。

 楯縫(たてぬひ) 今も前に依りて用ゐる。

 玖潭(くたみ) (もと)の字は忽美(くたみ)

 沼田(ぬた) (もと)の字は努多(ぬた)

    以上四、郷別(さとごと)(こざと)

 餘戸里(あまりべのさと)

神戸(かむべ)

楯縫と(なづ)くる所以(ゆゑ)は、神魂命(かみむすびのみこと)()りたまひしく、「()十足天日栖宮(とだるあめのひすのみや)縱橫(たてよこ)御量(みはかり)()(ひろ)(たく)(はな)()ちて、(もも)(むす)びに結び、八十(やそ)びに結びげて、天御量(あめのみはかり)()ちて、所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)宮造(まつ)れ」と()りたまひて、御子天御鳥命(あめのみとりのみこと)楯部(たてぬひべ)()て、天降(あまくだ)ひき()退(まか)()して、大神御裝(みよそ)ひの楯造ひし所是なり()りてるまで、楯桙(たてほこ)りて、皇神等(すめがみたち)(かれ)楯縫

佐香郷(さかのさと)。郡家正東(まひがし)四里一百六十歩なり佐香(さか)河内(かふち)百八十神等(ももやそかみたち)(つど)()して、御厨(みくりや)ひて、酒を(かも)させ給ひき。卽百八十日(ももやそか)喜讌(さかみづき)して解散(あら)()しき(かれ)佐香と云ふ

楯縫郷(たてぬひのさと)。卽郡家(ぐうけ)けり 名をくこと郡の如し。 卽ち北の海濱(うみべ)紫菜磯(のりしのいそ)(いはや)あり(うら)(たてよこ)一丈半()各七尺あり(うら)あり。口(めぐ)六尺(わた)二尺。人入ることを。遠きを知らず

玖潭郷(くたみのさと)。郡家正西(まにし)五里二百歩なり所造天下大神命(あめのしたつくらししおほかみのみこと)天御(あめのみ)飯田(いひだ)御倉(みくら)造り給はむ()巡行(めぐ)給ひき()、「波夜佐雨久多美乃(はやさめくたみの)()ひき(かれ)忽美(くたみ)と云ふ 神龜三年に、字を玖潭と改む。

沼田郷(ぬたのさと)郡家の正西八里六十歩なり宇乃治比古命(うのぢひこのみこと)、「爾多(にた)を以て、御乾(みかれ)()()()()さむ」と()りたまひて、爾多(にた)()ふせひき。然れば爾多郷(にたのさと)()べきを、人猶努多(ぬた)と云ふのみ 神龜三年に、字を沼田と改む。

餘戸里(あまりべのさと) 名をくこと、意宇郡の如し。

神戸里(かむべのさと) 出雲なり。名をくこと、意宇郡の如し。

出雲国風土記 島根郡 『爾佐加志能為社社(爾佐加志能為神社)』

出雲国風土記 嶋根郡 『爾佐加志能為社社(爾佐加志能為神社)』 御 由 緒 爾佐加志能為神社 (野井浦) 祭神  大己貴命  歴史の足跡 現在、野井の神社といえば『出雲国風土記』、そして『延喜式』にみえる 古社「爾佐加志能為神社」である。同じ「爾...