【出雲国風土記】国の特別記述|古代出雲を貫く道と駅家|出雲国全域
出雲国風土記の中でも、とくに国全体の構造を伝えるのが「国の特別記述」。
国府のある意宇郡を中心に、隣国へ通じる古代道路・駅家(うまや)、軍団、烽(のろし)、戌(防備拠点)がどのように配置されていたかが、里数とともに克明に記されています。
本記事では、その全文とともに、出雲国内を走った幹線道路のイメージをたどってみます。
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概要/国の特別記述とは
「国の特別記述」は、天平5年(733)に成立した『出雲国風土記』の末尾に置かれた章で、国の東西南北の境から、隣国との境界に至るまでの距離を、道の名称・橋や渡し場・駅家・郡家とともに克明に記しています。
中心となるのは、国庁の置かれた意宇郡家の北にある「十字街(ちまた)」。
ここから正西道・枉北道・正南道・東南道といった幹線道路が分岐し、隠岐・伯耆・備後・石見など周辺諸国へと通じていました。里数・歩数まで細かく記されているため、古代出雲の交通・軍事事情を知るうえで非常に貴重な史料となっています。
出雲国を貫く主要道路
国の東の境から西へ延びる道をたどると、飯梨川に架かる野城橋を経て、意宇郡家の北にある十字街へと至ります。ここから道は二つに分かれ、
- 枉北道(きたにまがれるみち):朝酌渡・嶋根郡家を経て、隠岐へ渡る千酌の浜へ
- 正西道(まにしのみち):野代橋・玉作街(たまづくりのちまた)を経て、楯縫・出雲・神門の諸郡家、さらに石見国安農郡へ
さらに玉作街から南へ向かう正南道は、大原・飯石・仁多といった内陸の郡家を結び、備後国三次郡や伯耆国阿志毗緣山方面へと通じていました。
驛路と駅家(うまや)の配置
国の特別記述の後半には、「驛路(うまやぢ)」として駅家(うまや)の位置が列挙されています。野城驛・黒田驛から始まり、隠岐へ向かう千酌驛、国中を横断する宍道驛・狹結驛・多伎驛などが、一定の間隔をおいて並びます。
駅家は公用の伝馬・公文書の中継地点であり、古代の高速道路サービスエリアのような役割を担っていたと考えられます。
軍団と烽(とぶひ)・戌(まもり)
続いて、国防に関わる施設――軍団・烽(とぶひ/のろし)・戌(まもり/防備拠点)の位置が記されます。意宇軍団・熊谷軍団・神門軍団の所在や、馬見烽・土椋烽・多夫志烽・布自枳美烽・暑垣烽といったのろし台の配置から、海岸線や国境・交通の要衝が意識されていたことがわかります。
戌(まもり)は、神門郡家の西南・嶋根郡家の東北といった場所に置かれ、周辺諸国との境界を守る軍事施設として機能していたと考えられます。
国の特別記述 原文(書き下し)
▼ 出雲国風土記「国の特別記述」全文を開く
国の特別記述
十字街(ちまた)
道度
國の東の堺より、西に去くこと二十里一百八十歩にして、野城橋に至る。長さ三十丈七尺、廣さ二丈六尺あり。飯梨河なり。
又、西二十一里にして國廳、意宇郡家の北なる十字街に至り、卽ち分かれて二つの道となる。一つは正西道、一つは枉北道なり。
枉北道は、北に去くこと四里二百六十六歩にして、郡の北の堺なる朝酌渡に至る。渡り八十歩。渡船一つあり。又、北へ一十一里一百四十歩にして、嶋根郡家に至る。郡家より北に去くこと一十七里一百八十歩にして、隱岐渡、千酌驛家の濱に至る。渡船あり。
又、郡家より西へ一十五里八十歩にして、郡の西の堺なる佐太橋に至る。長さ三丈、廣さ一丈あり。佐太川なり。又、西へ八里二百歩にして、秋鹿郡家に至る。又、郡家より西に一十五里一百歩にして、郡の西の堺に至る。又、西へ八里二百六十四歩にして、楯縫郡家に至る。
又、郡家より西へ七里一百六十歩にして、郡の西の堺に至る。又、西へ一十里二百二十歩にして、出雲郡家の東の邊、卽ち正西道に入るなり。惣べて枉北道の程、一百三里一百一十歩の中、隱岐道は一十七里一百八十歩なり。
正西道は、十字街より西へ一十二里にして野代橋に至る。長さ六丈、廣さ一丈五尺あり。又、西へ七里にして、玉作街に至り、卽ち分かれて二つの道となる。一つは正西道、一つは正南道なり。
正南道は、一十四里二百一十歩にして、郡の南西の堺に至る。又、南へ二十三里八十五歩にして、大原郡家に至り、卽ち分かれて二つの道となる。一つは南西道、一つは東南道なり。
南西道は、五十七歩にして斐伊河に至る。渡二十五歩、渡船一つあり。又、南西へ二十九里一百八十歩にして、飯石郡家に至る。又、郡家より南へ八十里にして、國の南西の堺に至る。備後國の三次郡に通へり。惣べて國を去る程、一百六十六里二百五十七歩なり。
東南道は、郡家より去くこと二十三里一百八十二歩にして、郡の東南の堺なる〔仁多郡比比理村に至る。又、東南へ一十六里二百三十六歩にして、仁多郡家に至り、分かれて二つの道となる。一つは正東道、一つは正南道なり。
正東道は三十五里一百五十歩にして、伯耆國の堺なる阿志毗緣山に至り、正南道は三十八里一百二十一歩にして〕、備後國の堺なる遊託山に至る。
正西道は、玉作街より西へ九里にして來待橋に至る。長さ八丈、廣さ一丈三尺あり。又、西へ〔一十四里三十歩にして、郡の西の堺なる佐雜埼に至る。又、西へ一十三里六十〕四歩にして、出雲郡家に至る。又、郡家より西へ二里六十歩にして、郡の西の堺なる出雲河に至る。渡五十歩、渡船一つあり。又、西へ七里二十五歩にして神門郡家に至る。卽ち河あり。渡、二十五歩、渡船一つあり。郡家より西へ三十三里にして、國の西の堺に至る。石見國の安農郡に通へり。惣べて國を去る程、一百六里四十四歩なり。
驛路
東の堺より西に去くこと二十里一百八十歩にして、野城驛に至る。
又、西へ二十一里にして、黑田驛の至り、卽ち分かれて二つの道となる。一つは正西道、一つは隱岐國に渡る道なり。隱岐道は北に去くこと三十四里一百四十歩にして、隱岐渡、千酌驛に至る。又、正西道は三十八里にして、宍道驛に至る。又、西へ二十六里二百二十九歩にして、狹結驛に至る。又、西へ一十九里にして、多伎驛に至る。又、西へ一十四里にして、國の西の堺に至る。
軍團
意宇軍團は、卽ち郡家に屬けり。
熊谷軍團は、飯石郡家の東北二十九里一百八十歩なり。
神門軍團は、郡家の正東七里なり。
烽
馬見烽は、出雲郡家の西北三十二里二百四十歩なり。
土椋烽は、神門郡家の東南一十四里なり。
多夫志烽、出雲郡家の正北一十三里四十歩なり。
布自枳美烽は、嶋根郡家の正南七里二百一十歩なり。
暑垣烽は、意宇郡家の正東二十里八十歩なり。
戌
宅伎戌は、神門郡家の西南三十一里なり。
瀬埼戌は、嶋根郡家の東北一十九里一百八十歩なり。
天平五年二月三十日勘へ造る。秋鹿郡人 神宅臣金太理
国造帶意宇郡大領外正六位上 勳十二等 出雲臣廣嶋
※原文は出雲国風土記の書き下しを引用し、読みやすさのため一部改行のみ調整しています。
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| 備考 | 本記事は史料紹介・散策のメモであり、特定施設の公式案内ではありません。 |

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