【出雲国風土記】国の特別記述|古代出雲を貫く道と駅家|出雲国全域

2021年2月21日日曜日

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【出雲国風土記】国の特別記述|古代出雲を貫く道と駅家|出雲国全域

出雲国風土記の中でも、とくに国全体の構造を伝えるのが「国の特別記述」。
国府のある意宇郡を中心に、隣国へ通じる古代道路・駅家(うまや)、軍団、烽(のろし)、戌(防備拠点)がどのように配置されていたかが、里数とともに克明に記されています。
本記事では、その全文とともに、出雲国内を走った幹線道路のイメージをたどってみます。


「十字街(ちまた)」
出雲国風土記 国の特別記述|意宇郡十字街(ちまた)周辺のイメージ

国府の北に位置した「十字街(ちまた)」から、各方面へ古代道路が分岐していきます。

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概要/国の特別記述とは

「国の特別記述」は、天平5年(733)に成立した『出雲国風土記』の末尾に置かれた章で、国の東西南北の境から、隣国との境界に至るまでの距離を、道の名称・橋や渡し場・駅家・郡家とともに克明に記しています。

中心となるのは、国庁の置かれた意宇郡家の北にある「十字街(ちまた)」
ここから正西道・枉北道・正南道・東南道といった幹線道路が分岐し、隠岐・伯耆・備後・石見など周辺諸国へと通じていました。里数・歩数まで細かく記されているため、古代出雲の交通・軍事事情を知るうえで非常に貴重な史料となっています。

出雲国を貫く主要道路

国の東の境から西へ延びる道をたどると、飯梨川に架かる野城橋を経て、意宇郡家の北にある十字街へと至ります。ここから道は二つに分かれ、

  • 枉北道(きたにまがれるみち):朝酌渡・嶋根郡家を経て、隠岐へ渡る千酌の浜へ
  • 正西道(まにしのみち):野代橋・玉作街(たまづくりのちまた)を経て、楯縫・出雲・神門の諸郡家、さらに石見国安農郡へ

さらに玉作街から南へ向かう正南道は、大原・飯石・仁多といった内陸の郡家を結び、備後国三次郡や伯耆国阿志毗緣山方面へと通じていました。

驛路と駅家(うまや)の配置

国の特別記述の後半には、「驛路(うまやぢ)」として駅家(うまや)の位置が列挙されています。野城驛・黒田驛から始まり、隠岐へ向かう千酌驛、国中を横断する宍道驛・狹結驛・多伎驛などが、一定の間隔をおいて並びます。

駅家は公用の伝馬・公文書の中継地点であり、古代の高速道路サービスエリアのような役割を担っていたと考えられます。

軍団と烽(とぶひ)・戌(まもり)

続いて、国防に関わる施設――軍団・烽(とぶひ/のろし)・戌(まもり/防備拠点)の位置が記されます。意宇軍団・熊谷軍団・神門軍団の所在や、馬見烽・土椋烽・多夫志烽・布自枳美烽・暑垣烽といったのろし台の配置から、海岸線や国境・交通の要衝が意識されていたことがわかります。

戌(まもり)は、神門郡家の西南・嶋根郡家の東北といった場所に置かれ、周辺諸国との境界を守る軍事施設として機能していたと考えられます。

国の特別記述 原文(書き下し)

▼ 出雲国風土記「国の特別記述」全文を開く

国の特別記述

十字街(ちまた)

道度(みちのり)

國の東の堺より、西に()くこと二十里一百八十歩にして野城(ぬき)に至る。長さ三十丈七尺二丈六尺あり飯梨河なり

西二十一里にして國廳(くにのまつりごとのや)意宇(おうの)郡家(ぐうけ)なる十字街(ちまた)に至り、かれてつのとなる。一つは正西道(まにしのみち)つは枉北道(きたにまがれるみち)なり

枉北道(きたにまがれるみち)は、()くこと四里二百六十六にして、なる朝酌渡(あさくみのわたり)に至る。渡八十歩渡船(わたしぶね)つあり。又一十里一百四十にして、嶋根(しまねの)郡家に至る郡家より北に()くこと一十七里一百八十歩にして、隱岐渡(おきのわたり)千酌驛家(ちくみのうまや)に至る。渡船あり

又、郡家より西へ一十五里八十歩にして、郡の西の堺なる()()に至る。長三丈一丈あり。佐太川なり。又西へ八里二百歩にして、秋鹿(あきか)郡家に至る。郡家より西一十五里百歩にして、西に至る。又西八里二百六十四歩にして、楯縫(たてぬひ)郡家に至る

又、郡家より西へ七里一百六十歩にして、郡の西の堺に至る。又、西へ一十里二百二十歩にして、出雲郡家(ぐうけ)(ほとり)正西(まにし)(のみち)に入るなり。()べて枉北道(きたにまがれるみち)(みちのり)、一百三里一百一十歩隱岐道(おきへのみち)一十七里一百八十歩なり

正西(まにし)(のみち)は、十字街(ちまた)より西一十二里にして野代(ぬしろ)に至る。長六丈一丈五尺あり。又西七里にして、玉作街(たまづくりのちまた)に至り、かれてつのとなる。一つは正西道(まにしのみち)つは正南道(まみなみのみち)なり

正南道(まみなみのみち)は、一十四里二百一十歩にして、南西に至る。又へ二十三里八十五歩にして、大原(おほはら)郡家に至り、かれてつのとなる。一つは南西道(みなみにしのみち)つは東南道(ひがしみなみのみち)なり。

南西道(みなみにしのみち)は、五十七歩にして斐伊()(のかは)に至る(わたり)二十五歩渡船一つあり。又南西へ二十九里一百八十歩にして、飯石(いひし)郡家に至る。又郡家より八十里にして、南西に至る。備後國三次(みよし)に通へり()べて國を(みちのり)一百六十六里二百五十七歩なり

東南道(ひがしみなみのみち)は、郡家より()くこと二十三里一百八十二歩にして、東南なる〔仁多比比理(ひひり)に至る。東南一十六里二百十六歩にして、仁多郡家(ぐうけ)に至り、かれてつのとなる。一つは正東道(まひがしのみち)、一つは正南道(まみなみのみち)なり。

正東道(まひがしのみち)は三十五里一百五十にして、伯耆(ははき)の堺なる阿志毗緣(あしびえ)山に至り、正南道(まみなみのみち)は三十八里一百二十一歩にして〕、備後(びんご)なる()()に至る

正西道(まにしのみち)は、玉作街(たまづくりのちまた)より西九里にして來待橋に至る。長八丈一丈三尺あり。又西へ〔一十四里三十歩にして、郡の西の堺なる佐雜埼(ささふのさき)に至る。又、西へ一十三里六十〕四歩にして、出雲(いずも)郡家に至る。又郡家より西二里六十歩にして、西なる出雲に至る(わたり)五十歩渡船一つあり。又西七里二十五歩にして神門(かむど)郡家に至る。卽あり(わたり)、二十五歩渡船一つあり。郡家より西三十三里にして、西に至る。石見國安農(あぬ)に通へり()べてを去る(みちのり)一百六里四十四歩なり

驛路(うまやぢ)

東の堺より西に()くこと二十里一百八十歩にして、野城驛(ぬきのうまや)に至る

又、西へ二十一里にして、黑田驛(くろだのうまや)の至り、かれてつのとなる。一つは正西つは隱岐國に渡るなり隱岐道(おきへのみち)()こと三十四里一百十歩にして、隱岐(わたり)千酌驛(ちくみのうまや)に至る。又正西道(まにしのみち)は三十八里にして、宍道驛(ししぢのうまや)に至る。又西へ二十六里二百二十九歩にして、狹結驛(さよふのうまや)に至る。又西一十九里にして、多伎驛(たきのうまや)に至る。又西一十四里にして、西に至る

 

軍團(いくさのつかさ)

意宇(おう)軍團は、郡家(ぐうけ)()けり

熊谷(くまたに)軍團は、飯石郡家東北二十九里一百八十歩なり

神門(かむど)軍團は、郡家正東(まひがし)七里なり

 

(とぶひ)

馬見烽(まみのとぶひ)は、出雲郡家西北三十二里二百四十なり

土椋烽(とくらのとぶひ)は、神門郡家東南一十四里なり

多夫志烽(たぶしのとぶひ)出雲郡家正北(まきた)一十三里四十なり

布自枳美烽(ふじきみのとぶひ)は、嶋根郡家(ぐうけ)正南(まみなみ)七里二百一十歩なり

暑垣烽(あつがきのとぶひ)は、意宇郡家正東(まひがし)二十里八十歩なり

 

(まもり)

宅伎戌(たきのまもり)は、神門郡家の西南三十一里なり

瀬埼戌(せざきのまもり)は、嶋根郡家東北一十九里一百八十歩なり

天平五年二月三十日(かむが)る。秋鹿郡人(あきかのこほりのひと) 神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)


国造帶意宇郡大領(くにのみやつこにしておうのこほりのかみをかねたる)外正六位上 勳十二等 出雲臣廣嶋


※原文は出雲国風土記の書き下しを引用し、読みやすさのため一部改行のみ調整しています。

国の特別記述(出雲国府跡)
出雲国風土記 国の特別記述|出雲国内の交通・軍事を伝える特別記事

国の特別記述の世界をイメージしながら、古代の出雲路に思いをはせてみてください。

アクセス・地図

地図(十字街付近)

お問い合わせ

参考施設出雲国風土記に関する展示:島根県立古代出雲歴史博物館 など
TEL見学・資料利用などは、各施設の公式サイトをご確認ください。
備考本記事は史料紹介・散策のメモであり、特定施設の公式案内ではありません。

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