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出雲国風土記 秋鹿郡 『佐太御子社(佐太神社)』

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出雲国風土記 秋鹿郡 『佐太御子社(佐太神社)』 松江市鹿島町に鎮座する佐太神社は、出雲国風土記に佐太御子社と記載された古社で、出雲国二ノ宮、また出雲国三大社の内の一つとして佐陀大社として称えられ、佐太大神を御祭神としてお祀りする神社です。 拝 殿 本 殿 正中殿:佐太大神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男命・事解男命を祀る。 改修中の正中殿 北殿:天照大神・瓊々杵尊を祀る。 南殿:素盞嗚尊・秘説四座を祀る。 御祭神 正中殿    佐太大神 伊奘諾尊 伊奘冉尊 事解男命 速王之男命 北 殿    天照大神 瓊々杵尊 南 殿    素盞鳴尊 秘説四座 御由緒 佐太神社 御由緒 御祭神 北殿 天照大神 瓊々杵尊 正殿 佐太大神 伊奘諾尊 伊奘冉尊 事解男命 速王之男命 南殿 素盞鳴尊 秘説四座 御神徳・沿革  当社は出雲国風土記に、佐太大神社或は佐太御子社とあり、三笠山を背に広壮な大社造の本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三社とも称され、延喜式には佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれて来た御社である。 主祭神佐太大神〔猿田毘古大神」は、日本海に面する加賀の潜戸に御誕生になり、出雲四大神の一柱として崇められ、古くから導きの神・道開きの神・福の神・長寿の神・陸海交通守護神・鎮守の神として信仰されてきた。 御本殿は三殿並立で、中央が正中殿、向かって右が北殿、左が南殿、いずれも大社造りで、この様な豪壮な三殿構えは平安時代末期に成立したようであり、他に類例を見ないもので、神社建築史の上で特筆すべきものである。現在の御社殿は文化四年の造営であるが、その様式は古く元亀年間の造営を踏襲してきたもののようである。国の重要有形文化財に指定されている。 摂末社 田中神社 本社北殿の摂社で、西社は木花開耶姫命を祀り、縁結・安産。                東...

出雲国風土記 出雲郡 『御魂社(同社韓國伊太氐神社)(神魂伊能知奴志神社)(命主社)』

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出雲国風土記 出雲郡 『御魂社(同社韓國伊太氐神社)(神魂伊能知奴志神社)(命主社)』 出雲市大社町杵築東に鎮座する神魂伊能知奴志神社(別名命主社)は、出雲国風土記に記載された出雲大社の境外摂社のひとつの神社で、ご祭神は神皇産霊神です。 境内には推定年齢は約1000年と言われる大きなムクノキがあります。 ※ 出雲国風土記の出雲郡の条には、御魂社が2つ記載されていて、2番目の御魂社(大穴持神社)には出雲大社境内摂社の 神魂御子神社(筑紫社) と 伊能知比賣神社(天前社) を比定する説があり、5番目の御魂社(同社韓國伊太氐神社)に神魂伊能知奴志神社(命主社)を比定する。 神魂伊能知奴志神社 御祭神 主 祭 神    神皇産霊神 御由緒 出雲大社摂社 神魂伊能知奴志神社(命主社) 御祭神 神皇産霊神 由緒  神皇産霊神は天地万物の根本となられ、大國主大神が危難に遭われた際には常にお護りされ国造りの大業を助成せられた神です。 元旦の朝には出雲大社の大御祭に引続き國造以下神職参向の許、厳かに祭典が斎行されます。 祭日 一月一日 十一月七日 ムクノキ   推定年齢は約1000年と言われる大きなムクノキ 神魂伊能知奴志神社 全景 真名井遺跡 境内の裏側には、真名井遺跡と言われる、 九州産の銅戈と、糸魚川産の勾玉が発見された場所があります。 地 図 問い合わせ 所在地  島根県出雲市大社町杵築東真名井 TEL  0853-53-3100(出雲大社)午前8時30分~午後5時 HP   出雲大社 Email   出雲大社お問い合わせフォーム 駐車場  近くに専用の駐車場がありますが、途中の道が狭いのでおススメしません。  銅の鳥居からでも300mほどです。  出雲大社を参拝後に歩いて行かれたらいいと思います。 御朱印  無

出雲国風土記 大原郡 『須我社(須我神社)』

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出雲国風土記 大原郡 『須我社(須我神社)』 雲南市大東町に鎮座する須我神社は、出雲国風土記に須我社と記載された古社で、須佐之男命・奇稲田比売命・清之湯山主三名狭漏彦八島野命を御祭神としてお祀りする神社です。須佐之男命が始めて宮殿を建て、和歌を詠んだとして『日本初之宮』・『和歌発祥の地』とも言われています。 出雲国神仏霊場 の第十六番札所です。 拝 殿 本 殿 本殿彫刻 「日章月章」図 ◆本殿前破風 浪と注連の上に日章 ◆本殿後破風 浪の上に浮かぶ三日月と日章 御祭神 主 祭 神    須佐之男命 奇稲田比売命 清之湯山主三名狭漏彦八島野命 配 祀 神    武御名方命 御由緒 須我神社由緒 御祭神 須佐之男命 奇稲田比売命 清之湯山主三名狭漏彦八島野命 合祀 武御名方命  当社は古事記(和銅五年・西暦七一二年)に所載の神社です。肥の河上で八俣遠呂智をご退治なさった須佐之男命は遠呂智の尾から得た霊剣天之叢雲剣を捧げ持って宮を遷るべき良いところを求めて此処に至り「吾が御心清々し」と仰せになりました。この地を須賀といい此処に宮をお造りになり「須賀宮」として奇稲田比売命と共にお鎮まりになりました。また剣はいかにも畏れ多いとお思いになって、天之叢雲剣と銘づけて天照大御神様に献上なさいました。その時美しい雲が立ち騰がるのをご覧になって「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を」と御歌を御詠みになりました。 このことから当社は古事記・日本書紀に顕されている「日本初之宮」であり、「和歌発祥」の宮であります。やがて、この宮で御子神がご誕生になり御名を清之湯山主三名狭漏 彦八島野命と申し上げます。出雲国風土記(天平五年・西暦七三二?【七三三】年)では須我社・須我山 須我小川などの表記があり、賀と我の両様の文字を当てていたものと思われます また、当社の後方二キロ米の所に八雲山がありその山懐に磐座があります。その巨岩は夫婦岩と称し神社の奥宮として祭祀しております。良縁結び子授けの霊験・御利益 があるとして「二宮詣り」の信仰があります。当社の旧社格は県社であり神佛霊場では 第十六番の神社であります...